満足感のない感動
キーワードやフレーズを入れて「それ」が出した「結果」はとてもとても美しく素敵なものだと感動しました。
「それ」が出した結果が気に入らなければ、与える文字をちょっと変えてやれば、また別の結果をすぐに出してきてくれます。
ほんと、「AI画像生成」って楽ちんで面白い。こっちが提示する言葉のイメージをくみ取って画像として完成させる。なんて賢いんでしょう。めんどくさいなんて文句も言わないし。
でも気が付くんです。
望む結果を画像として出力させるために、自分はAIに作ってほしい画像に関連しそうな言葉を探すことに頭を使い、「いや、こういうのじゃなくて」とか、もっといいものできるんじゃないかって思って際限なくAI画像を出力させることに時間を費やしているだけなんだなー
ってことに。
上の画像をもとに生成された画像が下の画像
きれいだったり、かわいかったり、超リアルだったり非現実的だったり。
avatarという単語を含ませたもの。純粋に3DCG。
どこかにいそうな方っぽい
だれもが感動を共有できるものが、いくらでも短時間にできてしまう。
自分には絶対できないことだから本当に凄いと思う。
でも、
鉛筆であれ、タブレットであれ、
五感を使って描いた絵って、美しさ以上に作品が醸し出す内面の重みを感じる。
画材のにおいを感じる、
その作品を制作していた時の作者が考えていたことがわかるような気がする。
デジタルの恩恵にどっぷりつかっているくせに、
何、昭和時代的なこと言ってるんだって自分でも思うんだけどね。
このブログへのコメントは muragonにログインするか、
SNSアカウントを使用してください。